「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
毒親が毒親たる所以の話。
但しどちらが先なのかは不明。
大人が宗教にハマるのはいい。だって大人なのだから、倫理観を持っているのだから、それが宗教によって変わったり覆ったりまあなんにせよ、個人でハマる分には問題ない。道徳観とか倫理観とか育っていく上で適宜調整されるものだから、それが宗教に振り切って真理だと思い信仰を抱いてもなんら問題はないだろう。なぜならそれはその人の選択だから。宗教を選択したのだから、それは個人的な問題だ。
しかし子に教えるのはどうだろう。倫理観も危うい子供に宗教を教え込むのは道徳的にいかがなものだろうか。親がそれは真理だ真実だと幾ら喚いて教え込もうが、子供には間違ったものが分からない。正しいものも分からない。ただ親は絶対的な存在だから親が言うことが正しいのだろうと、大人が選択したものを丸呑みする。結果間違っているにしろ通常とは異なった倫理観や道徳を叩き込まれ、通常の世界では生きにくくなる。子は選択をしていないのだから、それは当然の話だ。親が生きづらくても、それは親が選択したのだから自己責任で通じるが、子は選択をしていないのだから責任もくそもない。
基本的人権は尊重されるべきなのに親子間では人権というものは無に帰す。親子なのだからという呪いのような言葉で子供は犠牲になる。親子なのだから人権を無視してもいいのだろうか。いいんだろうなあ。いつも被害をうけるのは子供だ。親の業を背負い、親の呪いを受け、親に足を引き摺られる。わたしはそんなにおもしろくもない人間なのだろうか、そんなにつまらない人間なのだろうか、そんなにうっとうしい人間なのだろうか。人格を壊されなければ、たられば、何かあったのかもしれないのに。
宗教は悪いとは思わない。人間、すがるものが必要なこともある。
でもね、自分が縋りたいだけなのに、子にも縋らせるのは、ちょっと間違ってると思うわ。
現在、新しいコメントを受け付けない設定になっています。