「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
パワハラでもいじめでも同じことが言えるのだけれど、これらはいじめる側といじめられる側の人間のみだと成立しない。発生しない。今回はいじめにするね、これ年代が違うだけで同じことだからね。
いじめる子、いじめられる子、あと必要なのは群衆。
見て見ぬふりをする群衆。
この三役が揃って初めていじめが成立する。いじめになる。
群衆というのはその他大勢なのでいじめに携わっていようが携わっていまいが然程関係はない。いじめに対して無関心でいじめが起こっていることすら知らない場合もある。ただこいつらは例に漏れず群衆の一人だ。いじめられっこにしてみれば群衆は敵だ。だって考えても見てみれば救いの手を求めたときもあるだろう、そういうときに手を差し伸べなかったひとを、いじめられっこが憎しんだとしても不思議な話じゃないだろう。これは呪怨よりもよっぽど受け入れやすいとばっちりだ。
群衆は質が悪い。自分たちは手を汚したくないからいじめっこには加担せず、火の粉を浴びたくないからいじめられっこにも肩を入れない。知らなかったと言っていればとりあえずなんとかなる大多数は、その存在のみでいじめられっこの退路を断つ。いじめられっこは絶たれた場所で考える。身近な逃げ場を考える。
いじめる子といじめられる子だけではいじめは成立しないのだ。
必ず、見ているだけの誰か、が必要なのだ。
例えばあなたが悪意のある人によって突き落とされて溺れそうになっていて、川辺で見ている人に助けを求めたとして、でも彼らは一切手を差し伸べようとも助けてくれそうな素振りも見せず、そのまま溺れたとしたら、たぶん恨みっていうのは落とした張本人よりも何もしなかったその他大勢にいくんじゃないかなとそんなことを思った。
わたしも昔にひどいいじめを受けていたけれど、いじめたやつはそれこそすごい勢いで呪うわけなんだけど、わたしが自殺未遂をしたことを知りつつもいじめに加担していた担任とか、保護してくれなかった機関とか、あしらってくれた役所とか、差し伸べられなかったサービスに対して同じような恨みを抱くのは、たぶんそこに幾らか期待をしていて、裏切られた気持ちのほうが大きいからじゃないかな。
見て見ぬふりは、被害者側にとってはいじめっこに加担したのと同じことなんだよね。
だからよく「いじめ問題をなくそう」とか「考えよう」とか息巻いている人は今一度自分の行動を確かめてほしい。見て見ぬふりをしたことはないだろうか。無関心に退けたことはないだろうか。声をかけるべきところをかけなかったことはないだろうか。分かっていて、知っていて、利己都合で、誰かの声を黙殺してはいないだろうか。いじめていないと言い切るのであれば自分は群衆ではなかったということも証明してほしい。
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