「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
これは割と切に思うことなんだけれど、体罰とかいじめとかパワハラとか虐待とか洗脳とかまあ諸々なんていうのかな、暗に存在していた社会問題で割とライトな部分というのは最近ネットを通じたりなんやかんやで可視化してるだけであって問題量としては決して変わっていない。増えたわけでも減ったわけでもない、ただ、見えるようになっただけ。んでもって今死んだから問題になっているのであって、これがサバイバーだったら問題にもならない。なので、可視化出来なかった時代のサバイバーは、ただ、ひたすら、ふびん。
これは別に可視化を問題にしたいわけじゃなくて、昔からあった問題に対しての社会の取り組み方に対する意見。今回女の子が虐待死した。そのニュースを見た人がどういう反応をするのかなっていうのが気になった。案の定ひどいとか言う人が多くて、でも、きみたちは、数十年前、そういったことは無視をしていたはずだ。
人は自分の生活に存在しないことはありえないと思っている節がある。
虐待されたことがない人は親を大切にしようと説く。
親のありがたみを説く。
親を大事にしない人を、説教する。
セカンドレイプのような二次的な虐待は日頃起こる。大人になったわたしに、世間の人は親を大事にしろと言う。死を見ないふりした担任や、保護しなかった児相や警察は、わたしが死ななかったので問題にはならなかった。わたしが死ななかったのは運が良かっただけだ。いや、後から思えば、死ななかった方が運が悪かった。わたしは、運が悪かった。
可視化した社会問題は可視化しなかったころの人を蝕む。
あの頃、わたしの親をひどい親だと言う人は居なかった。
だから、死んでおけばよかった。
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