「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
※まずはじめに当記事ではファッションメンヘラや構ってちゃんの「しにたい」には対応していないとする
そしてタブレット再び。打ちにくいけどパソコンめんどくて。
ついったーで「死にたい」に「死にたいは生きたいの裏返し」と返信してドヤ顔してる人がいたみたいなのでその話題。真偽はまあどうでもいい。以前からこの類には不満を感じている。
本題に入る前に。「死にたい」には大きく分けてふたつある。
■生きたくないから死ぬ
■死にたくないけど死ぬ
後者は希死念慮で、今日のお昼はサンドウイッチにしようとか、天気がいいから洗濯しようとか、そういうテンションで死ぬ。まあこれは個人差ありそうだけれどね、少なくとも完全頭がばぐってるし、こういうのはあまり口にしないね。今回は前者について扱うよ。希死はまたいつか。
前者の「生きたくないから死ぬ」というのは一番スタンダード。生きたくない、でも死ぬのは痛いし怖い、できるなら消えたい、でも消える手段がないから死ぬしかない。このパターンを非常によく見かける。死にたいのではなく消えたいのだ。口によく出される鬱のスタンダードである。
世の中にはくそみたいな本が溢れている。詐欺を働きたければ自己啓発本か心理学書を出すのがおすすめだ、エビデンス要らないから。そういう本の中に「死にたいと言う人に行ってはいけない言葉」というのを非常によく見かける。がんばれ、とかね。今回のついーとで荒れていたのも対応が間違っていただとか。
でも実際追い込まれて「しにたい」と口にしたとき、言っちゃいけない言葉なんかよりも、ゆいいつこれだけ言ってほしい言葉ってやつがあって、その言葉が導き出されない時点で、そいつはどうでもいいやつなんだよね、どちらにとっても。
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