「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
作品の中には舞台装置のキャラクターというものが存在する場合がある。
わたしはそれがあまり好きではない。
好意的に捉えるならば作者は作品を作りたいのであってキャラクターを育てたいわけではないんだろうなと解釈はするのだけれど。
舞台装置のキャラクターは都合のいい時に都合のいいことを喋り物語を進行させる。同時に記号の要素も持つことが多い。彼らは実にわかりやすい。実にそれっぽい。しかしそれではない。それらしいが、それではない。持ちうるセリフ以外は喋らないし行動もしない。ただ物語を進めるための謂わばNPC。そこからつまみあげてしまえば何の価値もない。他の何を喋ることもない。彼らはその世界に生きているわけではないので、例えばその世界の別の場所に移動させても価値がなくなる。
ここで笑ってくださいここ泣き所ですここが一番感動シーンですよ! と与えられる作品は、別の味方をすればそのシーン以外は無意味だ。わたしは何でもないやり取りのシーンや漫画や小説の何もない行間に空想や思いを馳せる。非常に相性が悪いのだ。
考察が好きとかそういった類ではなく、まあ頭空っぽにしているときはまるで据え膳上げ前のように提供されるそれらのほうが楽と言ったこともあるが、それにしても作品の魅力というのは作者が思っているよりも案外べつにあるものだ。
更に言えば記号や舞台装置のキャラは自我を持っていないので魅力的どころか非常に不気味に見える。彼らには行動理念がない。
「なぜこのキャラはここでこういった行動を取ったのか?」の答えは
「そういう風に台本に書いてあるからです」でしかない。
クソ国語もびっくりの回答だ。
キャラクターは人間ではないので考えないし悩まないし葛藤しないし逡巡しないし常に合理的で論理的な行動を取る。実につまらない。中身がない、キャラとして存在していない、正に物語を回すためだけの存在。都合がいい。なので舞台装置を積極的に登場させている作品は非常に多いし、それが記号を伴っている場合が殆どだし、もっと言ってしまえば昨今の作品なんてこれが称賛されるまである。読み手の思考放棄の賜物なのかも知れない。
まあ読み手の話になると最近よく見るのがリアリティの話。
フィクションにどれだけリアリティを求めるかっていう。
これは色々ありそうだけど究極な話フィクションの根底はリアリティなので違和感を抱いた時点でだめかなと個人的には思う。
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