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SHELLY DRUG is glorious.

「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」

わたしがずっと母親に対して抱いていた違和感が漸く言語化に至った気がする。
彼女はね、わたしを「コンテンツ」として「消費」してるんだよ。
まあやけに現代めいた言語化なんだけどさ。

でもほら、そういう人っているじゃない。
数年ぶりに会いたいって言ってきて、近況を根掘り葉掘り聞いて何時間かお茶して、やだーそれでさーうんうん、みたいなとりとめのない話をしてそんでもってばったり連絡途絶えて数年後またひさしぶりに連絡取ってくるような人。
そういう人は「私」に興味があるんじゃなくて「私というコンテンツ」に興味があって、「しばらくぶりに消費するか」って思いでコンタクトを取ってくるんだよ。そうつまり消耗品。それを産まれてからずっと母親はしてる。

母親はわたしの体験を自身の体験のように錯覚して話すことがよくある。自分が体験したわけではないのに、自分が見聞きしたわけでもないのに、わたしから話を聞いただけなのに、自分の体験として横取りをする。これは母娘の境界が曖昧だとかそんな感じで受け取っていたんだけれど、現実、彼女はわたしの人生を生きているのだ。わたしの目を通して、わたしの体を使って、第二の人生を文字通り生きている。やっていることはほぼ乗っ取りである。

これは止めてくれと再三口にしていたけれど、聞き入れられることはなかった。わたしの人生はわたしだけのものなのに、彼女はわたしのフリをして勝手に気持ちを代弁する。だからわたしは母への情報提供を断った。消費されることを拒んだ。しかしそれで怯むのは毒ではない。彼女は尚も消費の道を歩んでいる。

わたしはコンテンツではないし人間なので、消費されても消えることはない。けれど体験を横取りされて乗っ取られて、ベルトコンベア式に消費されてしまうとわたしは自身の価値も肯定感も消え失せるんだ。なんだかずっと自分の自己肯定感が低い理由がハッキリしてきたような気がする、ハッキリしているだけで高める方法はなんにもわかんないんだけどね。でも分かるのは、消費されないようにするためには秘匿するしかないということで、コンテンツにされないためには開示しないという、最早絶縁一直線の行為のみなのである。
非道な子だと批難するかな、親を見捨てるなんてと言うかな。
でもな、聞いてくれ。まともな親は子供の精神を乖離させないんだよ。
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