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SHELLY DRUG is glorious.

「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」

毒親の話。あくまでわたしの体験記。

 

幼い頃から倫理観や価値観、人格や人生を否定される。否定されるならまだしも壊される。選択権も奪われる。

例えば、あれしたいこれしたいはあれもだめこれもだめになることを知っているので、はなから主張しない。隠して押し殺す。そのうち欲は消える。幼い頃から欲の消し方だけは覚える。

価値観も壊される。否定され続けるのだから正解が見つからない、見つけられない、見つけようとも出来ない、あるはずもない、探すのが間違っていると思う。探すべきではないと思う。

選択権もない。気分で与えられ奪われ、そのうち、受け入れる。

 

全部だめだめちがうちがうって言われ続けるのに、あなたはダメな人間ね、という言葉は受け入れる。すとん、と奇妙に体の奥に落ちる。落ち着いてしまう。ああそうかわたしはダメだったのか、という着地点に安堵する。ほんとうに奇妙なくらい、この言葉はわたしにするりと入ってしまう。

 

価値観がなくなると、わたしは(あくまでわたしは)他人に価値観を求める。

他人の評価こそが絶対になる、そりゃそうだ。自分の中での正解がないのだから他人の中の正解に身を委ねたとしても大して不思議ではない。他人の倫理、価値観、人格、人生、決定、選択、哲学、あらゆるものが水準となる。自己の中に基準は一切ない。自分を図るものさしは、相手が握っているのだ。

 

そして残酷なことに毒親に育てられているので、この他人=毒親になってくる。

ああ、ざんこくである。なんということだ!

 

しかし社会に出てる以上(割と軟禁されていたけれど)お外の常識を知るに連れて毒親の価値観が可笑しいことに気付く。ここまでで幼稚園くらい?

で、常識が複数になった後の話。

 

複数の常識から正しい常識を選択し、それを決定できる時点でいくばくかの余地はあるし救いもある。

いやそもそも正しい常識たるものを選べる時点でその人は複数の常識の中には生きていないのではないのだろうか。

なぜならわたしの考えは間違っていて正しいのだから。

 

結局のところ、最も正しい価値観を持っている相手に頼る=結婚出産エトセトラ。逃げ切った人たちで結婚をしていない人はわたしは聞いたことがない。

 

わたしは最近少し他人と関わることがやっと増えたから、いろいろ考えることも多くなったし、思ってもみなかったことが案外簡単にできたりして、わたしすごいなあと思うけれど、なにやってんだとも思うし、ほんとなにしてたんだよとか、全部むだだよとか、逃げ出したくなったり、投げたくなったり、やっぱり意味もなく悲しんだりもする。

たぶんだけれど、壊れてしまった価値観は、直らないのだとうっすら思う。

理解はできるけどうまく飲み込めない。分かっているけど動けない。だから、分かっていないのかもしれないし、あるいはほんとうにまったくなんにも理解していないグズなのかもしれない。

 

毒親から逃げられた人って、

「親は大事にしなければいけない」「一生面倒みなければいけない」という常識と、

「自分の人生は自分のもの」「毒親にふりまわされたくない」の、双方正しい論理。

この複数の常識から何故自分にベストな方を選べたのか。

逃げるという選択肢はほんとうに自分の中から生まれ出づる感情だったのか。

 

わたしはね、親がすごく困ってたら、自分の身を引きちぎってでも救っちゃうと思うよ。

それはきっと間違っているんだろうけど、意思とは無関係だとしても。

これを親も心の底では気付いてるから、わたしはほんとに救いようがないよ。

救われないのは子だけだよ。

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