「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
小さい頃によく先生から「子供らしくしなさい」と言われました。大人びていたらしいです。子供らしくなかったらしいです。
しかしそれを受けて子供はどうするでしょうか。誰しも一度は抱いていると思います。子供らしくってなんぞや。そして子供らしくしなきゃいけないことを子供が強いられていて尚且つ子供自身がそれについて悩んでいる際、もうすでに子供らしくなんてものは無理なのではないかと。子供らしくということが無自覚で行われるものなら子供らしくないということを自覚している時点で子供らしく生きることは不可能なんじゃないのかと。
言葉遊びなのかなあ。
幻覚というものは定義上「実際には外界からの入力がない感覚を体験してしまう症状」(Wikipedia)なのだけれど、これに対して「わたし幻覚見るんすよ」という発言は、ンー? となります。
いやまあそりゃ存在していないものを見ているということを自覚している時点でそれは存在していないという概念が危ういんですからしかたがない。本来病識としては有り得ない話。ていうか寧ろ存在してるんじゃないの、幻聴じゃなくて実際に誰か言ってるんじゃないのというのが本人視点。だがそれを本人発言で、幻覚を見ている、というのは些か変。
(夢を見ている本人がそれを夢だと自覚する明晰夢に似ているかと思ったけれど、わたしは本来明晰夢ばかり見る類の人間なので、明晰夢を見ないという人の考えがよくわからない)
でもここで人格が分裂していると話が変わってくる。
Aが幻覚を見ているとして、その判別がつかないとしても、Bという第三者観点を持ちうる人格がAを客観的に判断したときに、「Aは幻覚を見ています」と言えるわけです。
Aには幻覚か現実かの判別は不可能でありそれが存在するかしないか不明瞭だとしても、第三者から常識を元に判別してもらえばそれが異常か正常かなどは簡単に見極められる。それが人一人の中で完結しているからおかしな話になるだけで、もし複数人いれば簡単に説明はつくのです。
(しかし必ずしもBは適切な判別が出来るわけでもなくあくまでもBの信じる常識内での決断にすぎないということを付け加えておく)
(そしてBは人格ではないのかもしれないということも付け加える)(たぶん人格ではない)
まあそんなわけで、「わたしは幻覚を見ます」ということを説明するのはとても大変なので医者には言ってないよというお話でした。
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