「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
初めに言っておきたいことなのだけれど、わたしは◯◯障害という呼び名が嫌いです。
ただそういう呼び方をしたほうが分かりやすいのは理解できます。
現実は精神障害十人十色、十人いればもれなく十人ぐちゃぐちゃの症状。なのにも関わらず一括りの呼び方にしてしまったほうが分かりやすいしまとめやすい。そういう意味で障害を使うけれど、医療機関とか福祉機関が思考停止していることには変わりないのでやはり受け入れることは難しいです。
愛着障害、という言葉を耳にしました。
調べました。泣きました。
ぐぐれば出るんですが簡単にまとめると、幼児期に信頼出来る人間から充分な愛情を与えられない、もしくは信頼出来る人間がいない等極端な状況に置かれてると人間頭おかしくなるよ、その後の対人関係むちゃくちゃやぞ。て感じです。
たぶん普通の方にはピンとこないと思います。
いや普通なんですよね。幼児期とかそういう小さい頃に、母親に甘えたりだとか、相談するとか、泣いたらどうにかしてくれる存在があるとか、泣きつけるほど頼れる存在がいるとか、わがままを言えるとか、いじけるとか拗ねるとか怒るとか、そういうのは子供として当たり前で、それで受け止めてくれる人がいるのも当たり前で、そういう当たり前が普通を作っていて。
でもふつうじゃない子はやっぱり居て。
どこにいても実家に居てもずっと緊張状態が続いていて、眠る時も片時も休まる時はなくて、誰にも相談できないから一人で抱え込んで、つらくても苦しくても自分の中で消化するしかなくて、相談しても良い方向に進むことがないから相談もせず、悩みを打ち明けられたりする人も居らず、感情はひたすら殺して、無になって、それでずっと、放置される。
手のかからない子。そう良く言われていたのですが。
手のかからない子には手をかけない。つまりは手をかけられない。手をかける必要性がないと大人が判断してしまったから、本来手をかけるべきところにもかけなかった。すなわち手を差し伸べなかった。それが繰り返されればその子は手を伸ばすことをしなくなる。諦める。どうせその手は誰にも届かないと経験則で学んだ。だからそうなる。だから手のかからない子に拍車がかかる。
物心ついたころに他人に言われたことがあります。
この子は物分りが良すぎる。手がかからなさすぎる。子供らしくなさすぎる。
(今思えばその時既に発症していたのだろう)
それを賛辞だと勘違いした母親はいつも、そうでしょう、うちの子は偉いんですよ、みたいに言っていたけれど、わたしはその時のもやもやを大人になった今でも忘れることができない。子供らしくしてください、しましょうねと呪文みたいに言われたけれど、もうわたしは子供らしくするということが子供らしくないと気付いていたし、たぶん言っている側も分かっていたから双方でもやもやしていた。
体だけは大人になったわたしは他者と正常な人間関係を築くことができなくなっていました。
仕事をころころ変えることも関係しているのか分かりませんが、広く深く浅くどころか、知り合いの一人すら出来なくなりました。作ろうとしてもよくわかりません。メアドを交換してもこまめに連絡をしませんので数ヶ月後には消してしまいます。
他人との距離感がわからないので(個性というか人格というか個別のアイデンティティがないので)境界性の判断を受けたような気がしますが、わたしのこの生来のと呼ぶべき人付き合いの壊滅さは恐らく幼少期のそこら辺に起因しているんじゃないかと思う今日このごろで御座います。
さて愛着障害の治し方ですが信頼できるパートナーを見つけることらしいですね。
それが出来たら最初から障害になってねーっつーの!! ダアホ!!!
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