「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」
昔母は運動会に、とても豪華なお弁当を作ってくれた。
美味しかったのでわたしはとても嬉しかったけれど、今思えばあれは「頑張っている母親の私」を他人に見せるためのアピールに過ぎなかったのだと気付く。
父も巷では「理解のあるやさしい父」だった。
両親共々、そういったアピールに長けていた。外面だけは完璧だった。
なので世間的に「不正解」なのはいつもわたしだった。わたしだけが真実を喋っていたのに。
母は幼い頃からわたしに徹底的に習い事をさせた。
けれどそれはわたしのためを想ってではなく、自分が幼い頃に習いたかった習い事だった。
彼女は自分の夢をわたしに託していた。もっと簡単に言うと彼女の二度目の人生がわたしだった。
わたしが習い事をすることで自分も追体験していた。わたしの体験は自分の体験、わたしの成長は自分の成長。わたしの喜びは自分の喜び。但し失敗や挫折、苦しみ等はわたしだけのものとした。
わたしはわたしがやりたいことは何一つやらせてもらえなかった。週5日習い事をして、週末は出掛けていたわたしには、自分が何をしたいのか考える暇さえなかった。おまけにカルトも関与していたし。
ずっと考えている、わたしには「わたし」という人格が存在しない。
だから解離したわたしも、わたしでないわたしも、誰も主人格ではない。主人格ってなーに。
主人格不在のままわたしはわたしを引き摺り回す。
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