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SHELLY DRUG is glorious.

「チミのデキのいいオツムなら一生賭けてもシェリィドラッグは理解出来ん」

  • 2018/03/24 Saturday

SOSを発した子へ

「ころされるかもしれん」と相談に来た子に、

「親ときちんと話し合いましょう」と役所は言った。

 

もう話し合いの余地はないから第三者を頼ったのにこれだったので、わたしはきっとあのとき死んでいたとしても当然みたいなものだったのだろう。今ではよくテレビで報道されたり問題になったり周囲が気付いてあげたりとかまあなんやかんやであるけれど、くそみてえな対応で生きてるくそみてえな子もいたんで、それはわすれないでください。

 

そのあとほんとうに殺されかけたけれどなんとか生きているのは、やっぱりなとかそんなでもなくてただ運がよかっただけです。

家庭は不可侵領域かもしれないけれどその不可侵を自力で乗り越えて、ちゃんと助けを求めた子には助けを提供できないと、死んでからじゃ遅いよ。

 

死んでからタラレバ語るのはただの責任回避と自己満足だよ。

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昨日も今日も明日も明後日も紙を印刷します。

大量に大量に印刷します。

それは偉い人を納得させるためだけの紙です。

会議が終わったらシュレッダー直行です。

そのために時間を使います。

そのためにインクと紙を使います。

無駄です。

データにしろ

 

そのくせ節約とかカラー印刷禁止とか言ってくるんですがならもうほんとデータにしようよ。パワポでプレゼンしようよ。なんでパワポで作ったプレゼン資料印刷してるんすか、そのままでいいじゃないすか!

 

ホチキスで止めながらべつにそんなこと考えてないですけどね。無の境地です。ぱちこんぱちこん。考えてたらキリがないです。ああいうひとたちは無駄に喋って無駄に会議して無駄に会議を伸ばすのが好きなんです趣味なんです。性能とか効率とか能率とか無駄を省くとか現場第一とかそういうのとかは無縁なんです。ただ座って椅子をあたためているのがいいんです。まあ、そういう年代なんです。そういう社会の縮図なんです。

  • 2018/03/21 Wednesday

大きい声では言えない話

満員電車のぎゅうぎゅう詰めに乗ってくるひとたちが嫌い。

赤ちゃん連れ、ベビーカー、車椅子。

 

彼らの所為で大人数が迷惑する。わたしも迷惑する。

彼らひとりが我慢をして別の時間帯に乗ればいいのに、わざわざぎゅうぎゅうに詰まっている満員電車に我が物顔で乗り込んでくる。他のひとたちは配慮しなくてはいけない。配慮であって遠慮ではない。大人数の善意によって成り立っている。ひとりのために大人数の配慮。これは不平等だ。

 

赤ちゃんは他人によだれをつけてギャン泣きする。

ベビーカーは言わずもがな。ていうかいつの間に人権得てんの? 片そうよ。

車椅子はさあ、乗らなきゃいけないのその電車に? 遅らせられないの?

 

朝のすし詰め電車はたくさんの遅延に苛まれる。急病人とか。いや急病人は降りようよ。近くの駅で降りようよ。結果として遅延とかいう迷惑かけるんなら降りようよ。

混雑が解消されることなんて夢のまた夢。あるわけない。

ちなみにこういうことを現実でチョロっと言ったりすると非難轟々だったり、或いは「乗る場所変えればよくね?」とか正論を言われたりする。迷惑なやつのために自分が去らなくてはならない。うん、不条理だな。全ての暴力行為にも言える、虐待とかいじめとか。被害者が場を去らなきゃいけない。残るのは加害者だけ。

  • 2018/03/18 Sunday

煙草休憩

きらいです。

 

最近喫煙者が肩身が狭いと嘆いているのは知っていますが、それは一部の喫煙者のマナーが悪すぎるために巡り巡った結果なわけでして、そしてマナーを守った喫煙者というのも実は全く守っておらず、喫煙所で吸ってきたんだからええやん! な顔をして電車に乗り込まれるとにおいで死にそうになるんですね。服とか髪とか鞄に他人のせいでにおいがつく、その不快感はなんともいえない。

 

仕事をしていると喫煙者の方が居て、その人達は数時間に一度煙草休憩に行くわけです。一服ってやつですな。それはどんなに仕事が忙しくても過酷でも締切近くても行くわけです。だって彼らは病気だから。ニコチン不足という病気だから。頭の。でそれをゆるしてますよねほとんどの会社は。ニコチン切れると頭も回らないし当たりやすくなるからです。そもそも煙草吸ってなけりゃいい話なんですがそれは出来ないらしいので、まあ許すわけですよ。

しかしトイレも我慢している人達が休憩に行かずに頑張ってる中もくもくタイムに行ってスッキリした顔で戻ってくる様はカチンとくるわけです。えわたしらの休憩は? みたいな。煙草吸わない人間の休憩は?

 

トイレ休憩を設けているところもあるけれどそういうところは煙草休憩とはまた別物。煙草も吸うしトイレも行く。そうなれば煙草を吸わない人間は二倍くらい休みをとっても許されるはずなのに会社は絶対に許してはくれない。意味不明だ。少しでも手を止めていればさぼっているだの暇そうにしているだの文句を言ってくるくせに、自分たちは悠々とお煙草タイムをエンジョイするわけだ。

 

(外食産業とかでの禁煙ブームについてはまた別記事で書くとして)

 

頭おかしいとおもう。

  • 2018/03/10 Saturday

労働時間と仕事量

わたしはあまりに仕事が速いのですがそれは雑だとかではなく単純に速いんです。

正確に言うと時間配分が苦手で、仕事を振られたら全力なので速いんです。

決して雑だとかチェックを怠ってるわけではないので正確で速いんです。

振られた仕事にすぐに取り組める姿勢を常日頃から維持しているからです。

 

大概は仕事がどれだけ出来るかというのは大して評価されず、いかに長いこと働いてきたか否かみたいなのを重要視するところがあり、仕事時間も長時間労働の方が重宝され、短時間は軽視される傾向があります。しかしながらわたしは働いていて思うのですが長時間労働は頭も体もにぶくなるので、切るとこは切って仕事をするほうが能率も効率も上がるのです。例えば7時間労働とかな。

 

仕事は効率を求めません。いやまじで。

ここらへんほんと腐ってんなって思う。

 

早く仕事が終わったやつから帰っていいなら、テスト5分で終わった子を退室させていいみたいなツイートがあってそのとおりだなって、いつもテスト5分で終わってみんなのために居残らなければならなかったわたしは同意したんですよ。見直しとかまずありえないから。何がありえないって自分での見直し時間もその5分に含まれているからで、それ以降時間つぶしのために行う見直しでのチェック漏れなんてないんですよ。それならさっさと退室したい。それならさっさと帰宅したい。

 

働き方改革とかむりだろうなあと思うのは、やっぱり上の方が腐ってるからだろうな。

上の世代の話だよ。

過去記事「宗教の二世の話」の続き。

フェアではない、と思う。

自分が良いと思って選択したものを他人に薦める。それは大人の関係としてはいいだろう。余計なお世話と言われることがほとんどだろうけれど。そして他人には拒否権もあるから受け取らないという選択もできるわけだ。まあ、言ってみれば、それが本来自己責任での選択というやつであって、宗教を選択する意志というのは他人がどうこう言えるものではないのだ。
宗教は拠り所で、信仰や崇拝を求めに行くところなので、それは個人の意志。

でもこれが親子間、いわゆる二世だと勝手が違う。暴虐だ。価値観を押し付けられ植え付けられるのは最早道徳倫理云々を超えている。端から全てを否定し、ただひたすらに宗教だけを肯定する人間を造るわけなのだからそれは選択でもなんでもない。押し付け。植え付け。洗脳。虐待。

極論で言えば「人を殺していい」と育てられた人が「人を殺してはいけない」という世間に馴染めないという事態が発生する。そこまではひどくはないんだろうけれど、ある程度はひどいよ。
そうなると馴染めなく生き辛いので、宗教の間違いを薄々認識しながらも宗教テリトリーで暮らしていく人生しか選べない。二世の葛藤というのは正しくここだと思う。そこ以外で生きられないのだ。そこ以外で生きられないことを知っているのだ。だからそこでしか生きられない。そこに居たいわけではないのに、そこから外には行けない。感性や感覚、認識が異なるので、テリトリーを外れることは敵わない。ずるずると、間違っていると感じながら、その場に留まらなければいけない。

形成された概念を宗教によって覆されるはありだけど、形成されてないものを作り変えてしまうのはフェアじゃないし、それはもはやただの虐待。
宗教は個人の自由。でも親子は完全なる別人なんだから、親が学んでいたって子供にむりやり学ばせてはいけない。子供が自分で選択できるまでは宗教を押し付けてはいけない。そんな当たり前のことが真理だと盲信している人間には通用しない。ここを突かれると彼らは口を閉ざす。宗教は人権尊重を訴えながら人権侵害をする。

  • 2018/02/20 Tuesday

宗教の二世の話

毒親が毒親たる所以の話。

但しどちらが先なのかは不明。

 

大人が宗教にハマるのはいい。だって大人なのだから、倫理観を持っているのだから、それが宗教によって変わったり覆ったりまあなんにせよ、個人でハマる分には問題ない。道徳観とか倫理観とか育っていく上で適宜調整されるものだから、それが宗教に振り切って真理だと思い信仰を抱いてもなんら問題はないだろう。なぜならそれはその人の選択だから。宗教を選択したのだから、それは個人的な問題だ。

 

しかし子に教えるのはどうだろう。倫理観も危うい子供に宗教を教え込むのは道徳的にいかがなものだろうか。親がそれは真理だ真実だと幾ら喚いて教え込もうが、子供には間違ったものが分からない。正しいものも分からない。ただ親は絶対的な存在だから親が言うことが正しいのだろうと、大人が選択したものを丸呑みする。結果間違っているにしろ通常とは異なった倫理観や道徳を叩き込まれ、通常の世界では生きにくくなる。子は選択をしていないのだから、それは当然の話だ。親が生きづらくても、それは親が選択したのだから自己責任で通じるが、子は選択をしていないのだから責任もくそもない。

 

基本的人権は尊重されるべきなのに親子間では人権というものは無に帰す。親子なのだからという呪いのような言葉で子供は犠牲になる。親子なのだから人権を無視してもいいのだろうか。いいんだろうなあ。いつも被害をうけるのは子供だ。親の業を背負い、親の呪いを受け、親に足を引き摺られる。わたしはそんなにおもしろくもない人間なのだろうか、そんなにつまらない人間なのだろうか、そんなにうっとうしい人間なのだろうか。人格を壊されなければ、たられば、何かあったのかもしれないのに。

 

宗教は悪いとは思わない。人間、すがるものが必要なこともある。

でもね、自分が縋りたいだけなのに、子にも縋らせるのは、ちょっと間違ってると思うわ。

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